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上杉謙信に関する雑学!

毘沙門天の化身

Wikipediaより

皆さん、こんにちは!

今回は上杉謙信に関する雑学をご紹介します!

上杉謙信は戦国時代の日本の大名であり、越後国(現在の新潟県)を支配した武将です。

彼は「軍神」「越後の龍」とも称され、その勇猛な戦いぶりと戦略的な才能で知られています。

以下は上杉謙信の生涯、偉業、そして雑学について詳しく説明します。

 

上杉謙信の生涯

幼少期と家督相続

上杉謙信は、享禄3年(1530年)1月21日に越後国守護代である長尾為景(ながお ためかげ)の四男として生まれました。

幼名は「虎千代(とらちよ)」でした。

父・為景が死去した後天文5年(1536年)8月、兄の晴景(はるかげ)が家督を継ぎました。

しかし、晴景の治世は混乱し、家臣団の不満が高まったため、家督を虎千代が継ぐことになりました。

天文17年(1548年)、18歳で長尾家の家督を継ぎ、名を「長尾景虎(ながお かげとら)」と改めました。

後に「上杉」の家名を継ぎ、「上杉謙信」と名乗るようになります。

上杉家の当主となる

上杉謙信は北信濃武田信玄との戦いにおいて頭角を現し、川中島の戦いでその名を広めました。

彼は関東管領であった山内上杉家上杉憲政(うえすぎ のりまさ)に頼まれ、関東地方の治安を守るために上杉家の家督を継ぎ、「上杉謙信」と名乗るようになります。

川中島の戦い

上杉謙信の最も有名な戦いは、武田信玄との川中島の戦いです。

この戦いは、天文22年(1553年)から永禄7年(1564年)の間に5回行われました。

特に第四次川中島の戦い永禄4年・1561年)は両軍が激突し、多くの兵が倒れる激戦となりました。

第四次川中島の戦いでの「車懸かりの陣」(くるまがかりのじん)や、信玄の本陣を襲撃した「三日月の陣」など、謙信の戦術は後世に語り継がれています。

信仰心と治政者としての顔

謙信は深い信仰心を持ち、毘沙門天(びしゃもんてん)の化身と称し、戦の前には祈りを捧げ、勝利を得るために神仏の加護を求めました。

越後の領内では、農民や領民のための施政も行い、治政者としても名を残しています。

特に戦で得た利益を全て領民に還元するなど、民に対しての慈悲深い一面を持っていました。

晩年と死

晩年の謙信は、関東地方や信濃越中などで勢力を広げ、北陸方面にも進出を図りました。

しかし、織田信長武田勝頼との対立が深まる中で、天正6年(1578年)に急死しました。

謙信の死因については、脳卒中や毒殺説など諸説ありますが、詳細は不明です。

 

上杉謙信の偉業

戦略的天才

上杉謙信は、戦国時代の数多くの戦いで卓越した戦術を披露しました。

特に川中島の戦いで見せた大胆な戦術は、後世の戦略家たちにも影響を与えました。

領民を大切にした統治者

謙信は戦だけでなく、領地経営にも優れていました。

農業生産の振興や治水事業などを通じて領民の生活を安定させ、民からの支持を得ていました。

義の精神

上杉謙信は、戦国の世において「義」を重んじる精神で知られていました。

敵対した相手に対しても礼儀を尽くし、捕虜となった敵兵を慈悲深く扱うことでも有名です。

彼の「義」の精神は、彼の武将としての魅力の一部であり、多くの人々に尊敬されました。

 

「車懸かりの陣」や「車懸かりの乱」

上杉謙信が用いたとされる戦術で、特に川中島の戦いでその効果が見られました。

車懸かりの陣は、全軍が車輪のように連携して動きながら、敵を取り囲むように攻撃する戦法です。

この戦術は、敵の戦列を乱し、効果的に打撃を与えることができるため、非常に有効でした。

川中島の戦いで上杉軍がこの陣形を用い、武田信玄の本陣に切り込みを入れた場面は有名です。

謙信自身が騎馬で突撃し、信玄に斬りかかったという伝説的な逸話も、この戦術の中で生まれました。

この戦術は戦国時代の他の大名たちにも影響を与え、戦国時代を通して高く評価されるものとなりました。

 

酒好きの一面

上杉謙信は「越後の酒好き」としても知られており、その飲酒の習慣は晩年には特に顕著でした。

謙信は毎晩のように大酒を飲み、その量は相当なものであったと伝えられています。

飲酒の理由については、戦場での緊張を和らげるためだったという説もありますが、詳細は不明です。

謙信の死因には脳卒中説が一般的ですが、一部では酒の飲み過ぎが原因であるとも考えられています。

これは、彼が酒を好み、頻繁に飲んでいたことからの推測に基づいています。

 

女性説

上杉謙信が実は女性であったという説は、いくつかの歴史的事実と逸話に基づいていますが、あくまで伝説の一つです。

謙信が一度も結婚せず、子供を残さなかったこと、また、戦場での一部の言動や、当時の服装の特徴がこの説を生んだ原因です。

戦場で謙信が戦った際、敵兵が彼の力強さと同時に、その風貌に女性的な印象を受けたという話もあります。

これは単なる言い伝えであり、実際の証拠はありません。

 

毘沙門天の信仰

上杉謙信は深い仏教徒であり、特に毘沙門天に対する信仰が強かったことで知られています。

毘沙門天とは、仏教の戦いの神であり、戦士や武将の守護神とされています。

謙信は自らを毘沙門天の生まれ変わりと信じ、戦いの前には必ず祈りを捧げました。

謙信の軍旗には大きく「毘」という文字が書かれており、これは毘沙門天の一字から取られたものです。

この旗を掲げて士気を鼓舞し、戦場での精神的な優位を保とうとしました。

毘沙門天への信仰は謙信の軍事活動にも影響を与え、戦う理由が「義」に基づくものであると信じていました。

このため、謙信はしばしば他国への侵略よりも、防衛や正義の戦いを重視しました。

 

義の人としての評価

上杉謙信は「義」を重んじた大名として広く知られています。

この「義」の精神は、彼の戦略や政治において一貫しており、戦国時代においても特異な存在でした。

敵対する相手に対しても正々堂々と戦い、捕虜や敗者に対しても寛容な態度を示すことが多かったとされています。

彼は敵対者の城を攻める際も、無意味な虐殺を避け、正当な理由に基づく戦いを心がけました。

たとえば、敵将が病気で倒れた際には、薬を送るという逸話があります。

この行為は彼の人間性と「義」を重んじる精神を象徴するもので、謙信の名声を高める一因となりました。

戦国時代の日本において、上杉謙信の「義」に基づく行動は他の武将たちと一線を画すものでした。

このため、彼は戦国時代の武将の中でも特に敬意を持って語られる存在となっています。

 

おわりに

上杉謙信はただの戦国大名ではなく、生き方や信念によって多くの人々に感銘を与えた偉大な人物でした。

彼の生涯は、義を重んじる姿勢と独特の戦術で彩られ、後世にまで語り継がれています。

謙信の足跡を辿ることで、戦国時代の複雑な人間模様とその魅力を改めて感じることができるでしょう。

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以上となります!お読み頂きありがとうございました!

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