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徳川家光に関する雑学!

幕府安定のために徹底した政策を行った将軍

Wikipediaより

皆さん、こんにちは!

今回は徳川家光に関する雑学をご紹介します!

徳川家光は、江戸幕府の第3代将軍であり、徳川家康の孫として江戸時代の礎をさらに強固に築き上げました。

彼の統治下で江戸幕府の支配体制が整い、日本社会は安定した平和な時代を迎えました。

家光の生涯、偉業、そして興味深い雑学について詳しく見ていきましょう。

 

徳川家光の生涯

幼少期

家光は慶長9年(1604年)に、2代将軍・徳川秀忠と、妻である江姫(浅井長政の娘)の間に生まれました。

彼の幼少時は、精神的に不安定な面があり、成長する中で母親との関係が複雑でした。

弟の忠長との間で跡継ぎ争いもありましたが、家光が祖父・家康や父・秀忠の支持を受け、将軍後継者として認められました。

将軍就任

元和9年(1623年)、家光は19歳で第3代将軍に就任しました。

就任当初はまだ経験不足がありましたが、家康や秀忠の遺した制度や側近たちの支援を受けて、次第に強力な統治者へと成長していきます。

彼は江戸幕府の制度を完成させ、日本の安定を築くために多くの改革を行いました。

晩年

家光の晩年は病に苦しみながらも、幕府の支配を強化し続けました。

慶安4年(1651年)、彼は47歳で亡くなり、息子である徳川家綱が第4代将軍として後を継ぎます。

 

徳川家光の偉業

鎖国政策の確立

家光の最大の偉業の一つは、鎖国政策を正式に確立したことです。

彼は祖父・家康が始めた外国との接触制限を徹底しました。

寛永16年(1639年)にはポルトガルとの国交を完全に断ち、オランダ、清、朝鮮の3国以外との貿易を禁止
しました。

この政策により、キリスト教の影響や外国勢力の侵入を防ぎ、国内の安定を図りました。

参勤交代の制度化

参勤交代は、各藩主に1年おきに江戸と領地を往復させる制度です。

この制度は家光が強化し、諸大名の力を抑え、幕府の権力を強化しました。

藩主たちは江戸での生活費や移動費がかかり、財政的に疲弊し、幕府に逆らう力を持ちにくくなりました。

大名統制の強化

家光は大名たちに対して厳しい統制を行い、幕府の権力を磐石にしました。

特に元和元年(1615年)制定の「武家諸法度」を改定し、大名たちに対する規律をより厳しくしました。

この統制により、幕府の支配体制はさらに強固なものとなり、日本国内は平和で安定した時代が続きました。

キリシタン弾圧

家光の時代にキリスト教徒(キリシタン)への弾圧が本格化しました。

寛永14年(1637年)から寛永15年(1638年)にかけて起きた「島原の乱」では、キリスト教徒を中心とした農民一揆幕府軍により鎮圧され、多くのキリスト教徒が処刑されました。

これにより、キリスト教は日本国内で事実上、根絶されました。

江戸城の大改修

家光は江戸城を大々的に改修し、さらに拡大させました。

この江戸城の改修は、江戸の町全体の発展にも繋がり、家光の時代には江戸が政治と文化の中心地としての
地位を確立しました。

 

家光の厳格な性格

家光は幼少期から厳しい教育を受け、将軍としての責任感を強く持つ人物でした。

彼の性格は非常に厳格で冷徹だと伝えられています。

これは彼の家臣や親族に対する態度にも反映されており、彼の統治スタイルは絶対的な権力を誇示するもの
でした。

特に弟の忠長との関係は冷酷なものでした。

忠長は家光と比べて明るく社交的な性格を持っていましたが、家光は弟をライバル視し、冷淡な態度を取り
続けました。

最終的に、忠長は家光の命令で自害に追い込まれました。

これにより、家光は自らの立場を明確にし、家中の秩序を厳しく保つための強いメッセージを送ったのです。

 

天海との信頼関係

家光が非常に信頼を寄せていた人物の一人が、天台宗の僧である天海(慈眼大師)です。

天海は家康の時代から幕府に仕えており、家光の時代にも多くの政治的助言を行いました。

家光は天海を幕府の顧問として重要視し、彼の助言を受けて様々な政策を実施しました。

特に天海は日光東照宮の造営に深く関わり、東照宮は家康を神格化するための象徴的な場所となりました。

家光は天海の知識と信仰心を重んじ、天海の助言に基づき幕府の権威を強化するための政策を推進しました。

このように、天海との信頼関係は家光の統治において非常に重要な要素となっています。

 

家光と徳川家康崇拝

家光の政治姿勢は、祖父である徳川家康に対する深い尊敬に基づいていました。

彼は家康の教えを非常に重んじ、その遺訓を忠実に守ろうとしました。

家康の死後、家光は彼を神格化し、家康を祭るための日光東照宮を造営しました。

この東照宮は、家康の霊を祀り、徳川家の権威を強調するための象徴的な場所となりました。

家光は何度も日光を訪れ、祖父への敬意を示しました。

彼は自らの統治が家康の遺志を受け継ぐものであることを強調し、家康の教えに従うことを徳川家の家訓
として定着させました。

これにより、家光は徳川家の政治的正統性を強固にし、幕府の統治を安定させました。

 

家光の健康法

晩年の家光は、健康状態の悪化に悩まされました。

彼は多くの病気に苦しみ、その治療のために様々な健康法を試したとされています。

特に漢方薬に頼ることが多く、薬草や伝統的な治療法に興味を持っていました。

家光は健康を保つために、規則正しい生活と食事の管理を徹底し、病気を予防しようと努めました。

また、健康を維持するために風呂にもこだわり、当時としては珍しい入浴法や温泉療法を取り入れたとも
伝えられています。

彼の健康問題は、家光の晩年の政治活動にも影響を与え、治世の終盤には病気が原因で幕政の運営が困難
になることもありました。

 

おわりに

徳川家光は、江戸幕府の基盤をさらに強化し、平和で安定した時代を築き上げた重要な将軍でした。

彼の統治下で日本は鎖国政策が確立され、国内の統治体制がより堅固なものとなりました。

彼の厳格な性格や家康崇拝、そして幕府の制度化における重要な役割は、江戸時代の繁栄の礎となりました。

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以上となります!お読み頂きありがとうございました!

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